2012年4月11日 (水)

世界遺産とエスペラント

私は一昨日(2012-04-04)に早くに目が覚めて、なんとなく世界遺産のことが頭に浮かんだ。昨年は、太平洋に浮かぶ小笠原諸島が世界遺産に登録され、多くの国民が喜び、観光客がふえているという、嬉しいような悲しむべき現象がひろがっている。悲しむべきというのは大勢の観光客が押し寄せて、それが東洋のガラパゴス諸島といわれる自然豊かな島に雑菌が持ち込まれ、島の在来種に大きな変化を与え滅ぼしてしまうのではないか、という恐れがあるからだ。
日本の世界遺産というビジュアル週刊誌が某新聞社から発行されはじめていることを知って、よくだべりに行く、近くの本屋に全巻予約を申し込んだ。もう私の体力ではすべてを訪ねるのは無理だと思うから。

ユネスコによって世界遺産条約が提案され、1972年に「世界遺産条約」が採択されてから40年、遺産の種類は文化遺産、自然遺産、複合遺産、危機遺産の4種類があり,はじめの二つについては特別に説明はいらないだろうが、複合遺産とは、文化遺産と自然遺産を兼ね備えたもの。危機遺産とは武力紛争、自然災害、大規模工事、都市開発、観光開発、商業的密漁などにより、その普遍的価値が損なう重大な危機にさらされている遺産のことと、説明されている。
世界にはすでにこれら全部をまとめると900を超える遺産がある。日本では全部で16が登録されている。そのほかに鎌倉と富士山が申請中である。

またこれとは別に、産業遺産というのがある。ウイキぺディア(フリー百科事典)は次のように説明されている。
『産業遺産とは、ある時代において、その地域に根付いていた産業の姿を伝える遺物や遺跡である。日本の近代化遺産に顕著なように、産業遺産は産業革命以降の鉱工業の遺産を指す場合にしばしば用いられるが、「産業」には、農林水産業や商業なども含まれるため、何をもって産業遺産とするかについては、専門家の中でも定義が一様ではない。
国際産業遺産保存委員会 (TICCIH) は、2003年に採択したニジニータギル憲章(*)において「歴史的・技術的・社会的・建築学的、あるいは科学的価値のある産業文化の遺物からなる」と定義している』[1]

(*)ニジニータギル憲章. TICCIH産業遺産憲章の暫定日本語訳全文 2003年7月17日ロシア共和国ウラルの都市、ニジニータギルで開催されたTICCIH総会で「産業遺産ニジニータギル憲章」が制定された。この憲章は、ICOMOS(世界遺産登録委員会)によって批准され、最終的には産業遺産保存に関する国際的な基準となる重要な文書だ 。

このように、いまの時代を生きる人々がこれからの人類が次世代の人に伝えるべき遺産として、世界的規模でその保存と継承を図っている理由はどこにあるか?

私たちは昨年3月11日に、千年に1度という大地震と大津波が東北地方と関東地方の県もおそわれた。それに連動して絶対安全だといわれた福島原発が破壊され、その脅威が日本国中を被い、後手になりながら、その対策に追われている。

この日本列島に人が住みついて以来、富士山は日本人が最も愛し、信仰すべき山として、また、世界に誇れる美しい山として、毎年大勢の登山者が内外から来ているのに、いまだに世界遺産として登録されないのはなぜか。登山者が多すぎて富士山はごみの山になっているためだ、というもっともな意見もあるが、はたしてそれだけだろうか。私は富士山の裾野に、自衛隊や米軍の実弾射撃場があることが災いしていると断じている。

雄大で美しい富士山麓に戦争のための実弾射撃城は似合わない。1日でも早く無くして、美しい富士山がそのまま平和な日本を象徴するようになってほしい。 

世界遺産の保存運動は、この地球を小さな国分けによって戦争をし、破壊することを許さない状況が生まれている。広島や長崎に落とされた原爆によって67年たっても被曝者の傷は癒えな一方、福島の原発事故は日本中に安心して住める場所を奪いつつある。このことは、人類が放射能や核兵器と共存できないことを明確にした。原発に対する安全神話がほころび始めたが、なおこれによって国民の生命財産を無視しても利益を得ようとする人たちが破壊された神話を何とか修復して復活させようとを試みている。福島原発の事故は、日本人の生存を脅かし、世界遺産とそれを守る地元の人たちの命までおびやかしている。

世界遺産の保存と継承は、核兵器や核開発による文明とは相いれないことを証明した。いってみれば、世界遺産保存運動は核兵器、核開発と原発に鋭く対立する地球的規模の運動なのである。世界遺産の周りに住む、すべての生物、動物、人間の保存に深くかかわり、核を利用するあらゆる企てに、客観的に反対する運動なのだ。

地球に生物が住めるようになり、人間が誕生してから四十万年の気の遠くなるような長い時間が経過して今日を迎えているが、これから先何万年生きていくことができるのかどうかは、自然を破壊し、すべての生き物の命を危うくする試みとの長い戦いがはじまっている。

今年はエスペラントが生れてから125年。地球上の大部分の人間が、地域、民族、宗教やニヒリズムを越えて、理解と融和を基調とする地球家族の絆をたもちながら生きていくための道具、それがエスペラントなのである。

 私は願う。すべてのエスペランチストたちへ。あなたがすんでいる町や地域に世界遺産があるあらば、それをエスペラントで書いて交流したいと。私たちの住む大地や海は、そこに住む人たちの手で守ってもらわねばならい。そしてその遺産の存在、歴史や人々の生活をエスペラントで書いて交流しようではないか。つまり世界遺産はどこに住もうとみんなの力で保存していかねばならない大事業なのだ。
エスペラントによる世界遺産の存在を世界的規模で交流させることは、これからの長い平和な地球を守る活動につながっていく。(2012-04-11東日本大震災から1年1カ月の日)

2012年4月 7日 (土)

わが青春日記(3)


わが青春日記(3)
去る3月21日に始まった選抜高校野球は、4月4日、大阪桐蔭学園が東北青森の光星高校を7対4で破って初優勝をした。監督、投手、キャプテンのうれしい談話が私を仕事に集中させない。負けたというよりは、この決勝戦で惜しくも準優勝に終わった東北光星高校へも惜しみない拍手を送る。
それぞれが3年間の高校生活で、この勝利をつかむまで、どのように自分を鍛え、訓練し、力を蓄えてきたのだろうか。高校生活を体験したことのない私には、想像もできない。
私はこの2週間の高校生たちの熱戦を見ながら、テレビの前で時には感動し、時には拍手をおくりながら、68年前の昭和18(1943)年前の10月21日、土砂降りの雨の日のことを思い出していた。
その時の私は、日大付属第四中学の2年生で、クラスの多くの仲間と共に渋谷駅前に集合し、雨が小降りになるのを待っていたが、午後になっても雨はやまなかった。そのうち、2年生以下は、雨のために風邪をひくといけないから、ここで解散といわれ、何の目的でここまで来たのかもわからずに、解散して行った。目的も理由も分からずに動員されていたのだ。それは終戦まですべての国民が遭遇した不幸であるといってもいい。

いまになって調べてみると、私の辞書には、次のように記されていた。
太平洋戦争下の1943年、学生・生徒(主として法分科系)の徴兵猶予を停止し、陸海軍に入隊・出征させた。その日、明治神宮外苑において学徒兵の壮行会が行われ、土砂ぶりの雨の中、分列行進を強制された。それ以後、徴兵年齢は20歳から19歳に引き下げられて、多くが戦場に赴き、希望のない侵略戦争に動員され、命を盗られた。
終戦になって出版された「聞けわだつみのこえ」は、このようにして戦場に駆り出されて行った青年たちの苦しみ、悩みが記されており、私も読んだが。私は昭和19年7月に予科練に合格したものの、飛行訓練もなく、通信兵になって島根県玉造町で終戦を迎えた。
同じ場所で勤務していた同僚たちはたった1発の爆弾で25名が命をおとした。
明治神宮外苑で土砂ぶりの雨の中で行進した学徒兵たちは、いかに悔いなく死ぬかということだけがぎむずけられた。かけがいのない青春を奪われていった。国民を死の行進に向けて動員した。そして、戦争を指導した将軍や政治家はなに一つ、国民に希望あたえることができなかった。
いま高校野球は、甲子園を目指す高校生たちの第1の希望、第1に思い出に残る取組みだろう。甲子園を目指す高校生ばかりでなく、家族や教師、友人たちはまさに国民的な運動のひとつとしてとりくんでいる。でも60年以上もたった今も、私には捨てきれないにがい思い出が先にでてきてしまう。(おわり)

ことばの歴史を考える

われらの大先輩、伊東三郎(1902-1969)の書かれた本のなかに「言葉の歴史」という本がある。子どもにもわかるようにやさしく書いた本で、いま私の狭い部屋のどこかに隠れていると思うが、現在は絶版の本である。
その初めの部分に、きれいな言葉を話す人は口からきれいな花や宝石が出てくるが、汚い(聞き苦しい)言葉を話す人は、口から蛇や蛙が出てきて、嫌われる、とあったとおもう。つまりよい言葉を話す人は人に好かれるが汚い言葉を話す人はきらわれる、ということをいったのだとおもう。

日本史年表には、1700年前後に弥生式土器が作られ、北九州、近畿、中国、四国へ農耕技術が伝えられ、当時の人々は同じ場所に定着して生活ができるようになったと記されている。そして、富を独占する豪族が誕生する。豊かな生活は、人間のさまざまな文化を生み出す。それは、地球が人間をして豊かな富をもたらすようになっていきことも意味する。漂流したり、安全な航海ができるようになると、朝鮮や中国との交流がはじまり、日本には朝鮮半島を通して中国文化が伝えられ、さらに、直接中国やその他の句にとの交流がはじまる。
漢字文化が伝わるとともに、日本古来の文化が漢字によって表現されるだけでなく、日本人の持っている大和ことばが はじめは漢字で表され、やがてひらかなや片仮名で表現できる文字がうまれ、人々の交流や交易も活発になり、日本で最古の歌集である万葉集もうまれてくる。
 一度はぜひ訪ねてみたい奈良県の万葉記念館に行くとその時代のさまざまな資料が大切に保存されているという。また万葉集を読めば、日本の古代の文化や日本古来の大和ことばを知ることになるといわれている
 ことばの始まりは、自分の思っていることを直接伝えたり、相手の思っていることを直越聞いて理解することからはじまった。一人ひとりのその体験が普遍的な、客観的な真理となっていき、 最初の個人的体験が普遍的真理になるとともに「ことだま」という考えが広がったと思う。
ことばが魂を持っているという考えは、江戸中期の学者、鴨長明や本居宣長によって解明されて行き、古代史に新しい光があたえられた。中世以後の合理的なヨーロッパ文化との交流は日本人の「言霊」的考えをこわし、ことばには精神的な思いは時代に合わなくなった。ことばは個人的考えを伝えるだけでなく、客観的により大勢の人に認知される形に変化発展してきた、と私は考える

2012年2月29日 (水)

青春日記(2)

中学生になった私の体は、恥部や脇下に毛が生えたり、顔にも剃るほどではないが髭が生えてきた。同級生の一人に面白いのがいて、休憩時間にズボンのボタンをはずして『おい、見てみろ、毛が生えてきたと、私をつっいて教えてくれた。家に帰って風呂に入りながら下を眺めると、私の恥部にも生えていた。でも恥ずかしいからだれにもはなさなかった。これはいよいよ、私の体が大人になる前兆だった。

しかし、その頃の青年の多くが、栄養不足から結核になったり、カッケという病気になったりした。私のすぐ上の兄も予科練に志願したから時々面会に行った。私が中学生になった春に見舞いに行った先は、霞浦海軍病院だった。やがて免役になり家に帰ってきて死んだ。私の家では子どもがだれも死なない、と思ったがそうではなかった。隣近所の青年で結核にならないのは不思議思えた。

農家への勤労奉仕が終わってしばらくすると、今度は、陸軍の兵器廠へ1週間、泊まり込みで動員された。

このことを書くにあたって場所がどこだったかわからないので、神奈川県庁総務課へ電話をし、さらに教えられた横浜市青葉区役所に電話をすると、すぐに分かった。

横浜線の長津田駅から歩いて数分の所に、今も「子どもの国」として残っているという。番地は横浜市青葉区奈々町700番地と教えてくれた。私たちが勤労動員されて行った場所は田奈部隊といわれていて、3年生の動員の後を引き継いだのだった。

私は毎日材木をはこんだり、解体した仮の作業場の片づけだった。その仕事の責任者のような兵隊とも職人ともつかない大人が、私に向かって言った。「あの将校は何を考えているのか、建てたばかりの作業小屋を、すぐまた壊して別の所にたてている。なにをかんがえているのかわからない!」

ほかの同級生たちは並べられた砲弾の中に火薬を詰める仕事で、私の仕事に比べれば、たやすかったが、1週間もたつと顔があかくはれてきて、金時の火事見舞いのようになった。それも一人や二人ではない。別のクラスの工藤君などは、田奈部隊の勤労動員が終わってから、何が原因かわからなかったが1カ月も休んでいた。彼は同級生の中でもかけっこがとても早く、50メートルでも100メートル走でも、いつも1番だった。ある時私が『なんでそんなに早く走れるのか?』と聞くと、『走り始めたら呼吸を止めて息をしないんだ』とこたえた。

ずいぶん恐ろしいことをするもんだと思った。私などはすぐにハアー、ハアーと息があらくなるのに、とおもった。

1週間の田奈部隊出の勤労動員が終わり、2日続けて学校は休みになった。すると母が国防婦人会の慰安のための映画会があるから行って来いと、入場券をくれた。

その映画館は鶴見川にかかる潮見橋を渡ってしばらく行き、左に曲がるとすぐにわかった。大勢の女たちが開場になるのを待っていたので、私もその後にならんだ。

やがて父よりも少し若いくらいの男が来て、言った『ここはお前みたいな子どもが見る映画じゃないから早く帰れ』と。言い争った覚えはないが、私はいきなり、その男の横面を思いきりたたいた。男は私を押し倒した。周りにいた女たちが騒ぎだし、私は憤懣やり方なく家にもどった。

母は何も言わなかった。ずっと後になって上映された映画は、上原謙と田中絹代の主演による『愛染かつら』だった。(つづく)

2012年2月28日 (火)

原爆展へ新パネル作成

2月28日付の新聞報道によれば、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)は、被爆67年の今年、15年ぶりに新しく企画・編集した原爆パネル《ヒロシマ・ナガサキ原爆と人間》のお披露目会見を東京都内で開いた、と報じました。田中事務局長によれば、次回の核不拡散条約{NPT}再検討会議第1回準備会が開かれるオーストリア・ウイーンで日本原水協などと共催して開く「原爆展」で使いたいと述べたといいます。

新パネルはB2判で30枚。第1部《あの日あのとき(16枚)》、 第2部《核被害の広がり(7枚)》、第3部《再び被爆者をつくるな(7枚)》で構成されているそうです。

児玉事務局次長によれば、「古いパネルにくらべ、若い人にもわかるような解説を付けるなど内容も刷新したそうです。

ヒロシマ・ナガサキ、さらにまた福島の原発事故で、67年たった今だからこそ語れるものがある、といいました。被爆者が高齢化して、これが最後になるかもしれないという思いをこめたそうです。

また、今後、新パネルの内容をパンフレットにすることや被曝に実相を世界中にひろげるために英語版なども製作予定とありました。

戦後,私たちのエスペラント運動でも、長田新編「原爆の子」、小倉豊文著「妻の屍を抱いて」、朝日新聞編「原爆体験記」、劇画「はだしのゲン」、写真集[被爆者]などがあります。

新パネルのパンフレット版をつくるなら、ぜひエスペラント版もつくりたいですね。

私は早速,そのことを被団協へ申し入れました。ヒロシマ・ナガサキ・フクシマは、決して別々のものではありません。

人類と核兵器は共存できません。その事実を世界中に知らせる仕事は エスペラント平和運動の大事な仕事ではないでしょうか。多くのエスペランチストがこの運動に参加してほしい、とおもっています。

2012年2月23日 (木)

青春日記(1)

  Winter is over, Spring has come.(ウインター リズ オヴー、 スプリング ハズ カム)

 昭和17(1941)4月、日本大学付属第4中学校(公立の中学の入学試験に落ちてだれでも入れる学校で、あだ名は与太中といっていた)初めて英語を習ったときに覚えた最初の英語のフレーズ()だ。研究社発行のKings Crownという当時としては一番良い英語の教科書だといわれていた。

 国語では岩波書店発行の国語教科書。この本の最初には「峠の茶屋」というタイトルで、夏目漱石作「草枕」から引用されていたことを後で知った。そのほか、国木田独歩の「武蔵野」などが出ていて面白くて何度も先読みして楽しんだ。そのほかに文法という教科があって「す、する、すれ、す」と暗記させられたが、一番興味のわかない教科だった。

 また、代数、幾何、物理、図画、といった教科があったが、担当の先生がいなかったり、かけもちの先生が休んだりしたので授業も休みになり、生徒一同大喜びだった。

 その前年、昭和16年12月8日、日本が真珠湾攻撃をしてアメリカ、イギリス、オランダ、中国などと戦争が始まった。私が小学校に入学した昭和1277日に支那事変といって中国大陸に日本軍が侵入していったときから5年もたっていて、あらゆる生活物資が不足していた。

 私の中学合格をいわって、父が靴屋に編み上げの靴を注文して作ってくれたが、豚皮しかないといわれたとこぼしていた。

 6人兄弟の3番目がやっと中学生になったのを父は喜んでくれたのだ。しかし最初に受けた横浜市立鶴見工業学校の試験では,口頭試問で「この町はどんな街ですか?」と聞かれたので「工業都市の町です」と答えると、試験管の先生は「商業都市の街ではないですか?」といわれ、黙ってしまった。そして試験に落っこちた。

 だから2回目の入学試験の時は、もっとおおらかに自分の思っていることを自由に言おう、落第でもいいからと割り切ったら、気が楽になり、試験にのぞんだ。試験管の質問は「なぜこの学校を受けたのか」というのだった。私は答えた。「中学2年まで勉強して、その後は甲種予科練に志願して飛行兵になる」と。試験官は「予科練に行くなら高等小学校でもいいのではないか」といった。私は何も答えず試験管をにらみつけてやった。それで口頭試問は終わり、合格になった。

  1年の1学期だけは学校で勉強ができたが、2学期からは勤労動員で、横浜線沿線の出征兵士の家の稲刈りを二人ひと組で、泊まり込みで、てつだうことになった。

 学校では教室いっぱいに60人もの同級生があふれるようにすわっている状態だったから農作業は楽しくて、自分なりによく働いた。私はこの農家で初めて一つの布団に二人で寝た。相棒はいたずらばかりしてなかなかねかせてくれなかった。(つづく)

 

 

 

2012年2月21日 (火)

2012年2月18日 (土)

政治は国民に勇気と希望を与えるものでなければならない


17日夜9時のニュース・ウオッチに野田首相が生出演して熱弁を振るった。司会のアナウンサーはいつもと違って笑顔が消え、神経が高ぶっていることがわかる。聞いているほどに私の頭が混乱してきて、スイッチを切ってしまった。
首相はいう、これは誰が政権を握っても今すぐに解決していかなければならない問題だ、と繰り返した。司会者は言う「それにしても国民の支持は低下を続けているが?」と問いただしたが満足な返事がかえってこなかった。

かってベトナム戦争の時、ホーチミン首相は国民に呼びかけた。
『戦争が終わったら、爆弾ではげ山に木を植えて、10倍も美しい国を作ろう!』と。
「今女性は男と同じような服装をしているが、戦争がおわったら、彼女たちにアオザイを着せてやりたい」{ボーゲンジャップ将軍} 

そして戦後に幾多の困難を克服して現在のように戦争での荒地は消え、女性たちはどこでもアオザイを大事の着るようになった。それは日本女性が着物を愛するのと同じだ。

消費税が3%に導入された時、千葉県内の労働組合は、協力してこの悪税反対の宣伝キャラバンをおこなった。私は千葉土建労組の税金対策部長を仰せつかっていたから、これに参加した。私の場合は日雇い労働者並だから、税金の申告は簡単だった。つまり1日の日当×労働日数だけ計算すればよかった。仕事のない時は組合の活動をして、手当は日雇いの半分だったから、難しい計算はいらなかった。
松戸駅頭で街頭演説した時、トップバッターで一番先にマイクを握った。そして言った。

「消費税3%といえば1千万円の工事を請け負ったとすると、30万円の消費税を払わなけらばならない。30万円は私たちの1カ月の日当だ。その中には道具代、車代、ガソリン代などが含まれる。1千万円の工事を受けたとすれば注文主から、その30万を値引きしてくれといわれる.気風の職人なら『ようがす』と答えるだろう。」
つまり消費税30万円は自分で払わなければならない。1カ月の日当代を注文された住宅建設に掛けるか、それとも消費税として国にとられて、どれだけ見返りがあるか、大変な問題だ。二者択一の選択を求める政治に期待することに抵抗したい」と

野田首相は国議員で、しかも総理大臣、民主党の政党助成金190億円を100%受け取って党の運営費に90%も使って居る。今すぐに消費税10%を上げても腹はいたまない。

先ず自分から国民との間の不公平をなくさない限り、首相の言うことを信じられないのは私だけではないだろう。(20120218)

2012年2月17日 (金)

「津波てんでんこを読む」

「津波てんでんこ―近代日本の津波史―」山下文男著を読む

 この本は2008年1月に初版が出て、その後2011年6月20日までに6版を重ねた。私は神奈川県立川崎図書館のあるのを知って借り入れを申し込むと、予約者がいて、貸しだされるのに1カ月余りまった。
学術研究論文集として、1年前の3月11日の東日本の大震災の影響から急速に関心が高まり、多くの人がこの本に注目したことがわかる。

目次をひらいていくと
《プロローグ》 キラー・ウエーブ
第1章 明治三陸大津波(1896年6月15日)
第2章 関東大地震津波(1923年9月1日)
第3章 昭和三陸津波(1932年3月3日)
第4章 東南海地震津波(1944年12月7日)
第5章 南海地震津波(1946年12月21日)
第6章 昭和のチリ津波(1960年5月23日)
第7章 日本海中部地震津波(1983年5月26日)
第8章 北海道南西沖地震津波(1993年7月12日)
《エピローグ》 自分の命は自分で守る―三陸だけが『宿命的津波』ではない

そして、参考文献、あとがき、
とあって235頁のよく調査された『近代日本の津波史』は終わる。1896年から1993年までの約100年間に8回も大きな地震と津波がおこっていたことがわかる。これに阪神淡路大震災(この時は津波なし)と昨年の三陸大地震を加えれば10回も大きな地震が我が国を襲ったことになる。
そのどれもが時間と場所を選ばず、家族の絆をズタズタにし、それまで営々として築いてきた家も財産も、これでもかといわんばかりに破壊し、命をうばっている。
地球の裏側のチリ地震でも津波の被害をうけたし、また広く見ればインドネシアにおける地震、中南米のハイチにおける地震や中国奥地でのそれらは、私の記憶にあるだけでも大きな災害をもたらしている。
 この一つひとつの記録を読み直して、これからの人たちのために役立てることは特に必要だ、とおもう。あまりにも大きく多い災害は、おごれる人間の欲望をうちくだいている。

エピローグで著者が書いている要点をひろいあげれば、つぎのようになる。
日本は世界でも1,2を分ける津波の国。ここでは詳細があきらかにされていないが、1771年'(明和8)には沖縄、八重山群島を襲った『八重山地震津波』がある。
三陸海岸では、明治の三陸津波で二万二千人も溺死したため、元に人口を回復するのに30年近くかかっている。そしてそれらの体験を風化させないために求められるものは何か。

 私が子どもの頃、横浜の野毛山に関東大震災記念館があってよく遊びにいったがいまはない。また、東京両国には震災記念堂が建てられ、近くにはその当時を知らせる絵画館もあった。いずれも学校の遠足で連れて行ってもらったわけではないが、大人たちの話を聞いて青年時代に訪ねていった。 著者は言う、「防災行政の軸足を防災教育に」と。(20120217)

2012年2月15日 (水)

両目をしっかり開いて未来を見つめよう!

昨日、日銀は物価上昇1%めどに10兆円の金融緩和策を全員一致で決定して実施すると発表した。それなら私たち国民の懐に
10兆円/10億2千万人の国民一人一人に働かなくても転がりこんでくるとでもいうのだろうか。その道で大学を卒業し、長い間金融部門の
トップとして仕事をしてきた人の考えだとすれば、これをにわかに信ずることはできない。とすれば日本経済に1万円札をだぶつかせて、
インフレを起こし、名目だけでも景気回復をさせようというのだろうか。
テレビのコメンテーターは早速そんなことで景気は浮上しないだろう、とかたっていた。私もそう思う。

 私の住んでいる町には5分とかからない所に「7+11」の店が2軒あり、さらに『マイバスケット』という店が昨年オープンした。100円ショップはすでに2軒で、ここは、わが市でも物価は1番安くて、私のような低所得者でもまあまあな生活ができる。時間をやりくりしてこれらの店をわたりあるけば、20%引き、30%引きの品物が買えるから、私はもっぱらそれを利用している。。

一方、政治の分野では税と社会保障の一体改革と称して、消費税は10%に上げなければ、国の経済が成り立たなくなると宣伝し、その一方で、国民一人ひとりが最低7万円の年金をもらうのは60年先だと言って、その余りにもを打算的な考えをあわてて引っ込めた。私は今80歳を超えたから、後60年生きればその年金で余裕しゃくしゃくになるのだろうが、明日にも死ぬかもしれないのだ。
提案している政治家のだれもがあと60年いきる、またそお成果を見届ける人などあろうはずがない。はこれから生まれてくる赤ちゃんだってそういないだろう。

また一方で、大阪市では維新の会とかいう時代遅れの、つまり65年以上前の政治も引き戻して、「国民よあまりにも勝手なことをいうな」、とばかりに、とりあえず市のなかから ヒットラ―顔負けの政治を実現しようとしている。その市長は司法を勉強した弁護士だったのだが、この人は大学で何を 勉強してきたのだろうか。
このごろ、電車の中でも、町の通りでも眼鏡をかけている人がとても多い。私もその一人だが、メガネをかけている人も今の世の中のことをはっきりみることができなくなってしまっているのではないか。しかも長年いろいろと勉強してきた人たちは足元さえよくも見えないらしい。、もちろん未来もよく見えないのだろう。

12日横浜で開かれた市民自治研究集会で記念講演をした先生は最後の締めくくりとして言ったことばがとても印象的だった。
講演の中味はすぐにわすれてしまったが。
『未来世代のために脱原発・再生可能エネルギー普及推進により、地球温暖化防止と持続可能な社会への発展をみざそう!」
「市民が変われば地域が変わる。地域が変われば国が変わる。国が変われば世界が変わる。」
「地球のことを考え、地域で行動しよう! 未来のことを考え、いま行動しよう!」と。

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